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「美学」と言うと、少し大げさに聞こえるかもしれない。立派な哲学を作れと言っているわけじゃない。もっと手前にあるものだ。

子どもの頃、正義の味方や、少し影のある主人公を見て、「こういう奴、カッコいいな」と思ったことはないか。弱い人間を助ける。約束を守る。仲間を売らない。勝てなくても卑怯な手を使わない。理由を説明できる前に、そういう振る舞いに惹かれる。俺は、その感覚をこの教習所では「憧れ」と呼びたい。

憧れは青臭い。大人になると、現実を知った顔をして捨てたくなる。「正義なんて立場次第だ」「優しさだけじゃ生きられない」「仁義なんて古い」。どれも一面では正しい。現実は単純じゃない。だが、複雑だからといって、カッコいいと思ったものまで全部捨てる必要はないだろう。

憧れが、自分の基準になるまで

最初は他人の目でもいい。高倉健みたいに余計なことを言わない男がカッコいい。優しい人間は魅力的に見える。モテたい。痛い奴には見られたくない。そういう俗っぽい動機も、入口としては十分だ。

ただ、少しずつ問いを変えていく。「人にどう見られるか」から、「自分はどういう人間でありたいか」へ。仁義、正義、優しさ、誠実、礼節、矜持、節度。言葉は何でもいい。自分が憧れてきた振る舞いを拾っていくと、やがて自分なりの基準ができる。それが美学だ。

美学は、誰かに勝つための武器じゃない。むしろ、自分を止めるために働くことが多い。言い返せるけれど言いすぎない。儲かるけれど手を出さない。仕返しできるけれどやらない。自分だけ助かる道があるけれど、誰かに全部押しつけない。自由を狭くするように見えて、その狭さが自分の形を作る。

善人になる話ではない

ここで聖人を作るつもりはない。腹も立つし、褒められたいし、時には卑怯な考えも浮かぶ。美学がある人間だって失敗する。大切なのは、失敗しないことより、どこへ戻るかを知っていることだ。

それに、美学同士が衝突することもある。友情を守るか、正義を取るか。優しさのために黙るか、誠実さのために言うか。そこで簡単な正解はない。だからこそ、他人のルールを借りるだけでは足りない。自分で考え、選んで、その結果を引き受ける必要が出てくる。

ハードボイルドは、カッコつけから始めてもいい。ただし、最後はカッコつける必要のない人間を目指す。誰も見ていなくても、自分が選んだ線を守れる。そこまで行けば、承認欲求も少し静かになる。完全には消えないだろうけどな。

どうせ憧れるなら、安物はやめとけ。